正月3日。
今朝の新聞。野村萬斎さんのコメント
神社のご神体の多くは鏡。
鳥居をくぐって我々は、実は鏡に
写る自分に向き合いに行く。
このコメントに大きく頷いたんです。
そういえば戦国武将の多くも
先勝祈願をします。
織田信長は熱田神宮を
武田信玄は諏訪大社を
上杉謙信は石清水八幡宮を
徳川家康は鹿島神宮を
真田昌幸は山家神社を
それぞれ詣で信仰しました。
お礼として多くの寄進もしたものです。
ボクたちも初詣で始まって
何気によくお詣りする習慣があります。
お願いごとをします。
お願いごとをすると同時に
自分と向き合うわけです。
その際に鏡はわかりやすい。
「か・が・み」
自分勝手な振る舞いや行いである
真ん中にある「我」が無くなれが
ボクたちは「神」となる。
もっと修行が必要なんだと。。。
そう言われる反面。
我があるからこそボクたちは人なんだ。
神ではない。
よく見れば
「我」は「神」で守られている。
そのほうがしっくりくるわけです。
そうだとすれば
願いごとは
神さまへのお願いではなく
自分への宣言なのかもしれません。
自ら叶えようとすることを
神さまが後押ししてくれている。
~をしてくだい
~になりますように
ではなく
~をするので叶えてください
~になるように行動するので応援してください
そう強く願う。
戦国の昔。それ以前から
祈願するのはそのためです。
無意識に神さまにお辞儀すれば
鏡の中で映るボクたちに向かって
お辞儀されます。
「託しましたよ」って。
ボクたちは託されている。
これが託されている様子だと
イメージできる。
そう感じるとありがたくもあり
感謝の念がわいてきますね。
参拝中に願いごとをしているのに
鼻水が垂れるほどに
「ありがとうございます」と、
感謝の気持ちがわいてくるのは
そのためです。
そうなれば叶ったも同然。
ご神体は神社によって異なります。
それが鏡であれ刀や玉であったり
山や岩や木であっても同じ。
このイメージでいいんだと思うんです。
自らと向き合い
まわりに感謝して
自分に宣言して行動する。
そんな瞬間なのかもしれませんね。